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ほりうち治療院「鍼灸・整骨院」から始まり「気功・ハリ治療院」へ ①

8 時間前
読了時間: 7分

ずいぶん長い時間がかかりましたが、今年の夏(8月ぐらい)から「ほりうち治療院」の治療内容は、ほぼ完全に「気功・鍼灸・整骨治療院」から「気功・ハリ治療院」に変われたと思う様になりました。


来院して下さる皆さんは、気功治療で心身の不調が回復し、毎日の生活の中で心身が向上する様になって行けば、「治療院には健康法として自分のペースで通う、何かがあった時に行く、心身のリフレッシユの為に時々行く」等と思われる様になります。

(〝気〟や〝気功〟に興味をもって「気功研究会」に参加される方もあります)  


私たちもそれを目標にした治療を続けています。

皆さんとは目的はほぼ同じですが、立場が違うという関係です。

今回は治療をする側の立場からの話です。過去の事柄も多く出て来ますがご容赦下さい。


 私が鍼灸‣按摩マッサージ・指圧、それらとは別系統の柔道整復師の国家資格を取った頃は、一般的にはそれらは「按摩さんと同じ様なもの」と思われている事も多い頃で、「大学まで出て、何で按摩さんになるの?」とか聞かれる事もあった時代でした。

そんなに昔の話ではありません。


時代が変化する時は、突然・早く・広い勢いでという事が多い様です。

現在の街中での開業医院・鍼灸院・整骨院等の多さは当時と比べると、それこそ「隔世の感」があります。


30代で東京から神戸に帰って来て、花隈駅の真上にある8階建てのマンションの7階の一室を自宅兼・治療室にして「鍼灸院」を始めました。

 今から思うと「来院の人達は、あんなに行きにくくて入りづらい所にある鍼灸院によくも脚を運んでくれたなあ…」なんですが、何人かの方達は治療院を現在の元町に移した後も定期的に通ってくれました。今でもその方達に感謝してます。     

 

花隈で「鍼灸院」をしてみて鍼灸だけでは生活できない(場所も悪かった?)事が身に染みたので、

花隈のマンションは住まいにして、元町駅東口山側のビル1階で「鍼灸・整骨院」を始めたのは1989年5月の連休の後でした。

それが今の「ほりうち治療院」です。


その6年後1995年1月に「阪神淡路大震災」が起こりました。

激しい揺れの中で、生まれて初めて本当に”死”を覚悟したのですが、最小限の被害で済んだのは花隈のマンションを住まいにしていたからです。

阪急電鉄の駅の真上なので、特に頑丈に建設されていたのだそうです。


 現在の「ほりうち治療院」の周辺はトアウエストと呼ばれ、飲食店やブティックなど沢山のお店のある賑やかな地域になりましたが、開院当時は昔からの中華料理店が何軒かある程度の場所でした。


また当時はまだ「暴対法」など無かった時代で、それ関係の事務所があちこちに在り、ちょうど山口組と一和会が抗争していた時で、治療院を下った近くのサンセット通りには機動隊の車輌が常駐していました。

 

その頃も「気功」は個人的に修練してはいましたが、治療法・健康法としてではなく澤井先生と言う方の武術、気の拳法「太気拳」を主にしたものでした。

そして、この"武術”が現在の「ほりうち気功」の基盤になりました。


東京の明治神宮の森の中の稽古場で先生の指導を受けながら練習していたので、神戸に帰って来てからは練習をする相手が無くなってしまいました。

 ただ、この武術は、自主練6割・「組み手」など人との練習4割と理解していたので、自主連で武術的な脚腰の鍛え方や自分的な動きの工夫をしていました。


これ以前に、私と親友は明治神宮の練習グループとは少し距離を置き、時々しか神宮には行かなくなっていました。

そして自分達なりの形や「組み手」を創り上げて行く事をメインにした練習をしていました。

そんな訳で、この時点で最初に澤井先生から教わった形や動き「組み手」とはかなり違ったものになっていたと思います。

 

澤井先生は心の広い方で、私たちの動きが理にかなっていれば先生と動きが違っていても私たちに「それでも良い、続けなさい」とか「(神宮に来なくても)修行を続けて行くのなら、それはそれで良い」とも言って下さいました。 

 修行は現在も続けています。


澤井先生は、何というか不思議なところや面白いところがある方でした。

かなり厳しい稽古をさせられた事もありましたが、強制されたり怒られたりした事は一度もありません。

そういったせいか気性の激しさでも知られていた方でしたが、自分の中では厳しい方だったという印象は全くありません。

 人に知られたくない様なご自分の失敗談でも平気で私たちに話してくれました。

油断されていたのか、空手の蹴りで中段を蹴られて病院送りになった話とか…


 誤解されないために書いておきますが、その頃オランダから身長190センチ体重100キロ以上の空手家で柔道も三段の、現在でもK会館史上最強の外国人空手家の一人と言われているそうですが、カレンバッハと言う方が日本に来ていました。

その方はその後、澤井先生の弟子になりましたが、会館本部の黒帯を総なめにした後に神宮に来て先生と「組み手」をしました。

 うう…残念ながら私はその時その場にいませんでした。

 後でその時の事を書いたその方の文章を読みましたが、要は何もできなかった様です。

 ・空手ばかりでなく柔道の技も使ってみたがどうにもならなかった。

 ・後で暫くノイローゼっぽくなっていた。

 ・先生の弟子になるより仕方なかった  という様な事が書かれていました。

その頃の先生の年齢は70代半ば、身長体重は165センチ弱60キロそこそこだったと思います。


 神宮で日曜日の早朝稽古の後、何時ものように「ルノワール」という喫茶店でモーニングを食べたりしながら先生のお話を聞いたり質問したりしていた時、急に先生が「女といえども油断は出来ん」と言ったので皆「???」になりました。


すると先生は「女子に電話の受話器で顔を殴られたことがある」と言われたので、皆 もっと「ええー?」とか「はあー?」になってしまいました。

例によって先生が私たちのモーニングやお茶代を全部払って下さり先に帰られた後、「先生、いやらしい顔して女の子に迫って受話器なんかで顔殴られたんだぜ」と言って皆で大笑いという事もありました。


 ここで私の武道歴を書いておきますが…中学・高校から浪人時代は剣道、防具空手、大学から20代後半まで合気道に魅力と欲求不満を感じながら続け、その後"澤井先生の武術・太気拳”に出会い今に至ります。


 先生は私たちに、武道の修行時代・太平洋戦争中の中国戦線での日本刀を振るっての白兵戦の話(戦争中は後方攪乱のための密偵の様な事もしていた様で「一般の日本人は中国語が下手だった」と言われたこともありました)から今の時代・私たちの生き方の話までいろいろな話をしてくれました。


 以前のブログにも書きましたが、その中でも印象に残っている言葉は「君たち今の時代は戦争もないし平和な時代だと思っているかも知れないが、これからの人生で3回は命にかかわる事に出会うと思って生きなさい」です。


この言葉を始めて実感したのは「阪神淡路大震災」での激しい揺れの最中でした。

「どんな時にでも油断しないで生きなさい」と言う武術家らしい方の言葉だったのだと思います。


 この話を書くのは止めようかな?とも思いましたが、今でも時々フラッシュバックのように目をかすめる先生の姿があります。


ある時、先生が神宮の練習場に袋竹刀(素肌で撃ち合う練習の時に、怪我をしない様に動物の皮をかぶせた竹刀)を持って来て実際の切り合いの時(?)の動きを見せてくれた事がありました。

 

あんな動きと目つきを見たのは初めてでした。

異常と言うしかない動きと目つき…でした。


私のしてきた剣道や映画で見る切り合いとは全く違っていました。

多人数相手を想定した動きである事はすぐに分かりましたし、目は人殺しの目でした。


終わるとすぐにいつもの穏やかな(?)先生に戻りましたが、私にはいつもの周りの景色も見えていませんでした。


いろいろ書きましたが澤井先生は、「ほりうち気功」 私の人生の恩人です。


長くなりましたので ② に続きます。






















「治療と武術」が今の生活の中心になっています。

澤井先生は「ほりうち気功」と人生の恩人です。





   







                         

















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